僕は人生において、心から『先生』と呼ばせていただきたい方が何人かいる。といっても、実際にお会いしたことがある方はいない。手塚治虫先生には、『火の鳥』で世界の仕組みというか、真相というか、そんなものを教えていただいた気がするし、近藤誠先生には、医療と病気との付き合い方を教えていただいた。他にも自然エネルギー推奨 オフグリッドの田中優先生、都知事選にも立候補された宇都宮健児先生、原始人食の崎谷博征先生など。
中でも、最もご尊敬申し上げるのは、赤瀬川原平先生だ。出会いはなんだったか?確か『新解さんの謎』という本だった。ネットで新明解国語辞典の面白さを解いたページがあり、その発見者として先生を知った。先生曰く、第一発見者はSM嬢(鞭と蝋燭の職業の人ではない)だったらしいが。
赤瀬川原平先生の本はそれから何冊も読んだ。どの本も読み進めるほどに、今まで疑問に思っていた日常の現象が『なんとなく解明』されるのが痛快だ。この『なんとなく』というのがポイントで、バッチリ解明されないところがなんとも気持ちいいのだ。わかんないところはある程度わからないままにしておいたほうが良いこともある。
よく、キリスト教徒が聖書を生活の傍らにおいて、朝起きると無作為にページを捲り、一節を読んで心に刻み、今日一日を健やかに過ごす、などという話を聞いたことがある。僕にとって原平先生の本は聖書に近いものがあり、毎朝かならず何かしらの著書を手にとって、一節を読んで一日の教訓として心に刻み込んでおきたい。先生のお言葉は一片も残らず吸い込んで自分のアタマの中にしまっておきたいとすら思っている。
ところで、その赤瀬川原平先生、お亡くなりになられたそうだ。2014年10月26日がご命日らしい。自らの間抜けを棚に上げているようだが、心からご尊敬申し上げているにもかかわらず、亡くなられてから2年以上もそのことを気が付かせないとは、流石は原平先生だ。
もっとも先生の著書を読んでいると、その場で先生とお話をしているような感覚がある。まるで僕の今の気持ちを理解して、言葉を選んで語りかけてきてくれているようだ。亡くなられた感覚が全くないのだ。というか肉体は灰になってしまったのかも知れないけど、魂だけはきっちり本の中において逝かれたのだ。
これはとても凄いことだと思う。なんだか古代の地層から発見された土器なんかと似ている。あれらの製作者がどんな名前でどんな人なのかはわからないが、何を思って何に感動してその土器を作ったのか、魂がちゃんと入っている。21世紀の現代を生きる僕にも、その気持ちをきちんと感じることができる。魂を残すってのは、そういうことなんだと思う。
僕も先生のように、肉体が滅んだあとも、魂を入れておける器を何か用意しておきたいと思っている。それは、ひょっとしたら、僕の子供たちなのかも知れない。僕の中に宿る父の存在を感じながら、そんなことを考えた。
原平先生の域に少しでも近づけるように、僕も日頃から文章を綴る癖をつけたいと思う。